運の話

普段の生活で、時たま何か不運なようなことに見舞われたりすることがある。 例えば、側溝に小銭を落としてしまうとか、コップを倒して飲み物をこぼしてしまうとか。

そんなとき少しだけイラっとしたり、ため息をつきそうになったり、きっと誰しも経験があるんじゃないだろうか。 おそらくそこで、どんな態度をとるかが、かなり重要な鍵になっているんだと思う。

不運のようなことが一つ起こったということは、自分の中に一つ運がたまったのだということに気がつける人はたぶんいない。 そう思い込むこともできるし、それらしい事象をつぶさに記録して並べ立てることもできる。 けれど、運がたまっているかどうかは、はっきり言ってわからない。

一方でだ、落胆によってため息を吐いた時、何か大切なものを失う感覚をすーっと感じる人はいるんじゃないだろうか。 少なくとも僕はそう感じることがある。

そんなときに、ふと考えることがある。 僕らにはきっと、出さなければたまっていく何かがある。目には見えない。 けれど、何かしらの力に変わる。よくわかんないけど、そんな仕組みが備わっているんじゃないだろうか。

出すということは、失うということ。 出さないということは、たまるということ。 もちろん、溢れそうになったものまで無理に止めようとすることはない。 でも、例えば財布の中に100円しかない時に10000円のものを買おうとするなら、それは借金をすることに繋がりやすい。

エネルギーも同じだ。 もしも、自分のエネルギーを浪費させる日々が続くなら、どんどん不足していくに違いない。 もちろん、依存のうちにあると使ったエネルギーを充填していくことなどできない。 エネルギーの性質上、誰かから借りるなんてことも困難だ。 つまり、常に「借金状態」だろう。

地獄に行く道とそうでない道を選ぶ瞬間というのは、ほんとに些細な自分の態度だ。 コップの水をこぼしたなら、まずそこを拭けばいい。 何かが濡れたなら、ただ乾かせばいい。 そうした後、時間が経ってそこを見れば、何に落ち込む必要があろう。何にいらつく必要があろうか。

確かに、ことが大きければ大きいほど、心は平静を保ち辛いかもしれない。 でも歴史を眺めてみれば、心頭滅却なんて言葉が残っている。 火の中でも平然としていたお坊さんがいたという。 実際のところ、そのお坊さんも自分も同じ人間だ。 日々の習慣が心を変えていくはずだ。

話を飛躍させてしまおう。

心が自然とバランスをとるように、心の鏡である自分の人生もまた、運のバランスをとるのであろう。 辛抱しなくてもいいが、辛抱したらその分どこかでバランスがとられていく。

だからこそストレスや不運を、自らのエネルギーによって発散した時に幸運の女神は後ろを向いてしまうのだろう。