試練の褒美は忘れた頃に

日々を過ごす中で苦しいこともある。しかもそれは、あるときに連続してやってきたり、長い間続いたりする。

そこで意を決してぐっと耐え切ってしまう。耐えきる術はシンプル。無理をせず自分にできうることをやりながら、後は、時間に解決してもらうことだ。

すると、そのことに対する本当の「報酬」は忘れた頃にやってくる。言い換えるなら、運がいいと感じる日々は、たいてい、試練に耐え切ってその記憶が薄れた頃にやってくる。

試練のうちにあると、こんなことをやってなんの意味があるのかと嘆くこともあるかもしれないが、嘆くのはもったいない。その分、運が逃げてしまう。運なんて目に見えないしそんなものがどうしたと、そう考えるのは普通だ。幽霊のようなものといえばそうだから。

しかし、つまるところ欲求というものの正体は有形ではなく無形だ。本当に面白いことだけれど運というものは、それを自然と蓄えている当人以上に、その人のことを理解していて、ある日、一番欲しい何かをプレゼントしてくれる。

だから、何が欲しいとか、何がしたいとか、わざわざ考える必要はない。本当にそれが必要なら、それは大抵予期せぬ形で目の前にやってくるから。

生きることが、生きているだけで意味があるのだと仮定し、それを一度信じたならば、もはや、委ねてしまうことだ。死にたくないのなら、生きることになる。死ぬ時に、生に意味はなかったと、考えることになったにせよ、ならば、その裏側である死ぬことにも、意味はないのだ。

どうせなら、運が味方してくれると、なんとなくでも信じることのできる生に、賭けてみてもいいのではないだろうか。信じることは自由で、さらに言えば対価はいらず、信じた結果は、プラスかゼロか、そのどちらかになるだけなのだから。