妥協の前に考えること

一番欲しい何かが手に入る直前には、たいてい似たような何かが目の前にあらわれてきて、そこで妥協が頭をよぎる。最初、1つしかなかった選択肢は、それに近づくにつれて、いくつにも増えていくものだ。

ただし、選択の性質上、当然全てを選ぶことは困難を極めることもある。そんなとき、あと一歩のところで必要なことは、妥協との戦いだ。

「妥協」は強い武器を持っている。それは「常識」っていうやつだ。この武器は、いかに妥協させるかということにおいて、いくらでも形を変えて論理の支配を企む。しかしだ。論理では感情の全てを制御できない。だから仮に妥協した場合、次は感情と戦うことになる。感情との戦いこそ、何よりも過酷な戦いだ。感情は言うだろう。一番に欲しかったのを、なぜ目前で取り逃がすのかと。その理由は論理では説明できても、感情の納得はもたらさない。

欲望の終点付近において、妥協と戦うか、感情と戦うか、どちらかを結果的に選ぶことになることは多い。妥協とは戦い続けることもできよう。しかし、感情と戦うことは、ほとんどの場合、無意味だ。抑え込めば込むほどに反発するから。どちらを選択するかは自由だ。その顛末は誰も知らない。

ただ一般化されたヒントは見つかる。例えば、「二兎追うものは一兎もえず」もしかすると、最初に追い始めた一兎は、そっちだけに集中すれば、手に入るかもしれない。ふとあらわれた一兎は、手に入れたところで必要がない場合が往々にしてあるものだ。ゆえに、後者をえたところで、前者は手に入らないどころか、一兎もえられていないことと同義かもしれない。

見かけの話ではなく、本質的なところで、そんな風な意味にもとれる言葉だと考えている。時として、妥協の罠に、惑わされないように歩みたい。