欲望への挑発

欲望にはどうも段階性がある。全く欲さない状態、ほんの少し欲する状態、そこにあれば欲する状態、そこになくとも欲する状態、継続的に欲する状態、そこになければ我を失う状態、それ以外のことを欲さなくなる状態。

依存について少しでも経験がある人なら、それぞれの状態がどんなタイミングで、自分を支配していくのか分かるに違いない。たいてい、本能であれ、どんなに高ぶったにせよ、自我を失えば、それは異常段階だ。その前に欲望への態度を改めなければならないはずだ。

なぜなら、頭で、このままではだめだと、何度となく自分に言い聞かせていた場合においてさえ、行為を継続しているなら、徐々に段階は進んでいき、段階が進むにつれて「もうどうでもいいや」という思考に切り替わっていく。こうなれば、自己制御は終わる。欲望を止めるものは、もはや時間しかない。もし、その欲望から生じる行為が、自分にとって全く価値のないものだとしたら、我に返ったとき、失ったものの大きさに愕然とするはずだ。

自分が価値があると思うことに、欲望の矛先を向けたい。それならば、もし自我を失うほど、欲望が暴走したにせよ、確かに健康は二の次となり、危険をおかす可能性は高まるが、実りはあるのだ。

きっと、まったく刺激のない世の中であれば、たいていの欲望は静かなままであろう。しかし、現実には人が集まるところに行けば行くほどに、刺激の種類もパワーも増えていく。

すると自分で何かに価値を見いだす前に、誰かが見いだした価値に対して欲望を抱かされるようになる。誰かが見出した価値に、流されるように一度でも手を出せば、そこからは相手の土俵だ。その先に待っていることは、依存であり、自身の喪失だ。

気がついたときにはもう遅いのだ。自分が本当に価値を感じるものは、外部には存在していない。百歩譲って仮にあったにせよ、それを自らによって、能動的に自覚せずに接するならば、自らの土俵で人生を過ごしていないことと同義なのだ。

誰かのテリトリーで上手く生き抜くことが出来る者もいよう。しかし、そんな人こそ自らのテリトリーで生きるならば、どれだけその能力と可能性を活かしきることができるのだろうか。環境は自分で創り出していくところが、特別に楽しいように思うのだ。本来、誰もが王者として、自らの欲望を扱うことができる。

欲望への挑発は、まずは受け流してしまいたい。価値判断はそれからだ。