ルールと自由

ルールとは社会の決定であり、個人それぞれに内在している本質的自由とは、本来何の関係もない。関係があるのは選択の問題だ。

世の中の不合理を嘆くことは、自らの手のひらの形状、身体の大きさ、身体の構造、心臓の位置などについて、何が正しく、どうあるべきかと問う事にほぼ等しい。

あるいは為替の価格変動にも似ている。常に正しくはないのが当然だ。しかし、「現実が常に正解」として認識して対応しなければ、嘆きの罠に嵌っていく。

「なぜ人を殺してはいけないのか。」「なぜ人を食べてはいけないのか。」「なぜ教育は必要とされるのか。」「なぜ生きなければいけないのか。」「なぜ働かなければならないのか。」「なぜタブーはタブーなのか。」

そうした問いへの答えは、誰かから教えられて納得するよりも前に自らで見出して、その問い自体を再定義することが自律した生き方の出発点になる。生物は生まれながらに、適応の自由が与えられている。さらに、生物の内には世の中を創り変えていく力や創造する力が宿っている。

正しさが存在すると想定した上で、それを現実化する力が誰しも与えられている。さて、選択は大きく3つ。

嘆く。諦める。創造する。自分がどうするのかは、本質的に自由だ。