人為的適応の代償

世の教えのひとつを解釈するなら、こういうことがある。用意されたものを条件とともに受け取りそれに満足するように生きよ。こうした考え方には、一面の真理が含まれているだけに、前提の欠陥を忘れてしまう。創造力のことだ。

何の用意や準備がなくとも、人間は自然の力によって、生かされていくことができる。そこでは、全てがイメージから始まり試行錯誤を経て創造に至る。だから人為的適応に、必ずしも取り組む必要はないのだ。日々の取り組みで培われた能力が、結果的にそれらの条件を満たすのであればその力を用いて貢献を果たすことも良いのだろう。

先にイメージがあって、次に行動があって、何かが生み出される。そして、その副産物として能力というものがあるのだ。目的は常に、あくまでも創造であり、能力は副産物に過ぎない。 それを見誤るとき、人生の歩みは鈍ってしまうかもしれない。他人の尺度である条件に見合う人間を目指した時、自分の手から人生は滑り落ちるからだ。

人為的適応を目指すものと、創造を目指すものとでは生き方が異なる。まずもって、行動の動機は前者が外的であるのに対し、後者は内的なのだ。外的な報酬に依存する生き方を選ぶならば、同時に内的な動機によって自らで行動を起こそうとする力を失う可能性について考慮しておきたい。なぜなら、命令と指示が思考停止を招き、報酬の存在が自立の意思を奪うからである。そうなると内在的な創造力は姿を消し、たとえば本当の危機の存在が目に見えたとしても、行動する力が湧いてきづらくなる。

すると後に待つのは、後悔と悲惨と怠惰といった無形の代償となるのかもしれない。