無駄で遊ぶ。

無駄なことなどないという考え方もある。それはそれでいい。ただ、確かに「無駄」という概念はあって、もし、それが存在するならば極力減らしたいところではある。

無駄をまず、見つける必要がある。それに気が付いたら、向き合うことが求められる。消去法で考えることもできそうなものだが、例えば、生産的でないものを全て無駄に分類したとすると、なんとも素っ気ない人間になりそうなものだ。周知の通り、生産的でないはずの楽しみの多くは、往々にして幸運の鍵になるのだから。

習慣において、本当に必要なものを見極めることが難しいように、本当に不要なものを見極めることも難しい。表裏一体と言えばそうなのかもしれない。もしかすると、最終的な選択が全て無意識に委ねられているのならば、こうした思考自体が無駄なことのようにも思えてくる。

また、習慣は意思によって変えていける可能性が常にあるが、必ずしも意思が本能よりも正しいわけではない。では、どうしたら、よりよく生きられるのだろうか。

それを保証する何かはないのかもしれない。ただ、そうと信じることを行うことで、よりよくなる可能性に賭けてみることができるだけだ。

正しいかもしれないことを、正しいと信じて、やり抜くことが大変なように、間違っているかもしれないことを間違っていると信じて、やめてしまうことも意外と大変だ。

さて、自主性や自由意志は幻だという考え方もある。信念は無意味なのだろうか。ならば、なぜ人に心や思考が与えられているのだろうか。

知識によって思考を毒されてはならない。いつだって、この瞬間も選択をしていくのが自任的な生き方だ。選択を幻のせいにしていては、人生は本当に幻になるのみだ。仮に幻にせよ、それでも現実たらしめるのが創造力であることに違いはあるまい。

構造や設定、規定や枠。超えていくことができないなどと、なぜ思い込む必要があろう。ルールやレールなどというものは、むしろ、自分で創り上げていくものだ。壊しては創り、遊ぶものだ。遊び飽きたなら、そのときにでも幻として扱えばいい。

習慣で遊び、無駄で遊ぶ。概念とは、ひとつの枠だ。創った概念に価値を与えるのは、自分自身がなすことなのだ。