景色を創る。

ひとたび街を歩き、電車に乗り、外を見て回れば、どれだけの景色が、目の前を通り過ぎていくだろうか。その眼前を過ぎ去っていく景色の数々に、今はあまり心を動かさないとしても、たとえば、はじめてその土地に足を踏み入れた時には、確かに何か感動した記憶が残っているものだ。

日々に忙殺されたり、日常の悩み事に神経をすり減らしたり、そんなことばかりで、自分の心を潤すことを忘れていれば、心はさびつき、感受性は枯れていく。すると、近くにある美しさに気がつくことができなくなり、ありもしない理想の中に美や快楽を追求していくはめになる。それによって、さらに心の潤いは枯渇するために、いつしか感情はまるで砂漠のようになってしまう。

疲弊した心では、ささいなストレスやいらだちを、ささいなものとして扱えなくなっていく。たとえば、雨が降っただけで怒るようになるかもしれない。少しつまづいただけで、目の前の小石を蹴り飛ばすようになるかもしれない。

さて、感情が不快に高ぶったのは、雨のせいでも小石のせいでもない。自らの心に水やりを怠った自らの責任にあるのだ。自分の心を見守り、育てていくことは、自分以外誰ができるだろうか。

ただ、ふとしたとき、自分の感受性の脆さに気がつかせてくれる他者が現れたりもする。たいてい、とても身近な誰かであることが多い。感受性の脆くなったことに気がついたとき、あるいは、誰かが気がつかせてくれたとき、それは確かに辛い瞬間だ。しかし同時に、大きな意味を持つ機会ともなる。

自分の非に目をつぶり、誰かを責める気持ちを正当化することは容易い。そして、自責の先にある「気づき」を得ることはなかなか難しい場合がある。どうか、対立や怒り、傷や悲しみ、寂しさ、そういう感情だけに支配されて、目の前の本当についてもう一度検討し、考え直す機会を忘れてはいけない。

疑うべきは、人ではなく、まず自分だ。自らの内にある、その感情、考え方、直観は、はたして本当に正しいのか。勘違いはないか。わからないことについては、わからないままに、ただありうることについての条件分岐を精査してみればいい。また、予想外のことがあるかもしれないということも、条件分岐のうちに組み込もう。そうすれば、「予想外のことが起こりうる」という想定のもとに生きることができる。

自分と向き合う中で得られていく気づきの多くは、不思議な感謝の感覚をもたらす。そんなとき、心は潤う。感受性のささやかな萌芽が訪れる。眼前の景色に色が戻り始める。景色とは、ただそこにあるだけのような受動的なものではないということを思う。そうして、世界の色彩を決めていくのは、自分自身の心の状態と、創造力にあることに深く思い馳せることになるのだ。