哀しみという魅力

自分が抱えた哀しみというものは、当人にとっては、どれほど辛いことだろうか。

それをありのままに表現できる空間が、この世に存在するならばどれだけ楽になるかは知らないが、多くの場合、表現することは躊躇われたりして、心の中の奥底に、深い蠢きと共に住処を見つけて居座り続けるものだ。忘れることの出来ない経験、人、時間、あるいは、それらへの執着。自責の念。罪悪感。言いようの無い虚無感。孤独。

人と関わって生きていくならば、鬱屈した感情を表に出し続ける訳にもいかず、笑顔の下に隠して、誰かに分かってもらえるときを期待しては裏切られて過ごしていく。「時間が解決してくれる」という救いの言葉や、「いつか忘れることができる」ということなど、もしかしたらそんなことないのかもしれないと気が付きながら、「心」という自らから切り離せない伴侶と向き合い続けなければならない。特に、夜ひとりで眠りにつこうとして眠れない時などは顕著であろう。

しかし、話は一転するけれど、ときとして、そうした哀しみは、誰かにとっては魅力にうつる。なぜかはしらない。哀しみが優しさをもたらすのか、それとも、経験が稚心を去っていくのか。とにかく、人は、哀しみによって変化する。いや、変化し続けなければ、感情に支配され飲み込まれてしまいそうで、なんとかして心の傷と向かい合ううちに、成長するのかもしれない。

繰り返される失敗や、同じような経験、同様の哀しみ。自分に何かを気がつかせようとしているのは、間違いがないことに思う。

似たような誰かの心の傷をみつけたとして、具体的に何かをするわけでもなく、そっとその傷が癒えることをそばで見守っていられるとしたら、そんな風な優しさは、とても優しいと思う。なぜなら、心は、自らによって強く支えられいくその過程こそが、非常に大切だと思うからだ。もしも、地に足をつけて自分で自分の心をしっかりと余裕を持って支えられるようになったのならば、その上で、共に支えてくれる誰かに出会えたとき、自分もまた、相手の心の支えになることだってできる。それが支え合いの理想的な姿かもしれない。

追記。

考えるという作業は、種をまくということに似ている。あるいは、何かの熟成を待つかのような、そんな気がするときがよくある。分からないかどうかすら、分からないという状況こそ、思考の活きる舞台に他ならない。あらゆる条件分岐に仮定をのせて、話をつむぐ。思考が追いつかないところがあるのだという前提を忘れない。ゆっくりとまとまっていくその流れの中に、ひとつでも船が見つかれば、それに乗って進んでみるだけだ。