自主性と自分を守る力。

自らの手綱をつかんでいるまさにその自らの手を離してしまえば、自分はどこへ行くのだろうか。その手綱を誰かの手に譲り渡してしまえば、自分はどこへ行くのだろうか。ただでさえ不安定な乗り物を、より不安定にしているのは誰だろうか。

歩む方向は、自らで決めるものだ。なぜなら、この足は僕の足だから。つかむものは、自らで決めるものだ。この手は僕の手なのだから。

簡単な選択と、難しい選択、どちらを選ぶことだってできる。簡単な方がいいと、短絡的にはいつも思うものだが、振り返ってみると、難しい道を選んで進んだときの方が、人生は充実していることが多い。

経験から、困難を選び取る。そんな生き方ができたらいい。自らにしか分からない、自らの喜びを常に探していたい。あるいは、大切な誰かとしか分かり合うことの出来ない密かな喜びを見出すことも忘れないようにしたい。針に糸を通すようなその瞬間こそが、何にも代え難い、自らの命を強く運んでいくのだろうと思う。

「運」とは、運ぶということだ。受動的なものではない。自らで自らの命を運ぶ。そこに運がある。そこに出会いや経験がある。そこに生きている意味や実感や有り難さがある。

幸福と呼ばれる幽霊は、どこかにいるわけではない。幽霊を現実のものとするのは、自らの創造力に他ならない。欲するならば、自らでそれを創り出すのだ。

「どうなるだろうか。」と考えているようでは、いかにもつまらない。「どうしたらいいか。どうしたいか。」という決断が欲しい。正誤は関係ない。善悪も関係ない。やってみてわかることならば、やってみてからわかればいい。

受動的であることは、誰にだって出来る。いつだってできる。そうして、悲惨へと落ちていくことは、本当に簡単だ。ではどうすれば、それとは反対に能動的でいられるだろうか。

欲望を認めてしまうこと。こうあるべきというしがらみを諦めてしまうこと。よくわからない地図や人の描いた地図を見ていないで、自らの足で歩くことに集中すること。感情や未知の不安定さと向き合う中に、自らを見出すことが出来る。地に足をつけることができる。

自分の判断や決断を、自分が愛していなければ、どうやって主体的に生きることなどできようか。誤りや失敗を非難してくる者たちがいるのなら、自らを自らの愛によって必ず守ってあげなくてはならない。きちんと言い返すことも時には必要だ。

「君の意見はいかにももっとも。しかし、僕の人生は僕のものだ。君のものではない。非難は結構。しかし、僕の自由を奪うことは誰にも出来ない。」