禁欲の意味を知る。

結論からいくと、それは自己評価と自己批判にある。

自らを評価する尺度は、はたしてどこに存在するのだろうか。それは、他人や社会が用意した物差しで事足りるような画一化されたものではない。自らは、自らで評価して、前と思う方を前として進んでいくことで、自らを得るしかない。

禁欲の客観的な意味など、極論どうでもよいのだ。それを自らが誇りとする大切なものとみなすのならば、それを守ることが重要なだけだ。

大人は、子供が道端で拾った小石を宝物として大切にしているのを見て、何を思うだろうか。現代人は、昔の侍達が、誇りのために切腹するのを想起して、何を思うだろうか。無宗教の者は、各宗派の礼拝を見て、何を思うだろうか。

趣味の異なるものが、その趣味を認め合うように、主観的な価値やその意味は、個々人がお互いにお互いの姿を認め合うことで、事足りるはずだ。他者を非難するだけ、自らも同じ傷を負う。他者を認めるだけ、自らを認めることを自らに許すこともできる。

正しさや原理の真理性を追求することは、無論悪いことではない。その主張や考えを広めることも、またよいことかもしれない。

しかし、誰かの誇りを傷つけてまで、押し付けなくてはならない真理など、どうして存在するだろうか。その矛盾に気がつくならば、自らの誤りにも気がつくのだ。

自らを正しいとみなしたいのであれば、それは他人との闘争のうちにはない。主観的な正しさは、そこにあるものではなく、自らが自らによって試されながら、自分との闘争によって獲得していくような、泥臭いものだ。

はたして、客観的な正しさと、主観的な正しさが一致するのかという問題。距離を置いて、その条件分岐を調べていけば、まず、分かる分からないが分からないというところから始まり、客観的な正しさの存在不存在へと、ひとつ分岐していく、それは主観的な正しさの存在不存在へと行き当たり、結局のところ、主観的な正しさという土台を無しにしては、何も語ることができないことに考えは至る。

さて、僕にとっての禁欲は、その主観的な正しさを調べるためのひとつの試金石である。だから、価値は揺らぎ、そしてまた定まり、それを繰り返す。そのうちに、沢山の学びがあり、喜びと発見がある。禁欲など興味のないほとんどの人には、まるで分からない秘密の基地が、どうも心の中に日々築き上げられているようだ。つくっては、こわし、つくっては、こわし、より確かな造り方を知っていく。

そうしたあり方や、やり方こそが「自分自身なのだと」気がつく。畢竟、禁欲とは自分を見つけていく作業なのだ。