寂しさの正体

断言できることがある。

依存していたことから、少しでも離れることができたなら、自分は変化せざるをえない。

依存とは習慣のひとつだ。習慣は自らによって、いくらでも、何度でも変えていけるということを忘れてはならない。それがどんなに根強く染み付いていたとしてもだ。

やりたいこと、なりたいこと、したいこと、欲望は尽きることはない。欲望への答えは2つしかない。死ぬまで諦めないか、その前に諦めるか、それだけだ。せっかく尽きることのない欲望を抱いて生まれてきたのだ。安易に諦めることを選ぶ前に習慣を見直す方が先だ。習慣の見直しにおいて一番目につくもの、それが「依存」だ。ちょっとそれについて、直感していることを書いてみたい。

「依存」っというのは、とあるさみしさの集合体が、心理的に現実化しているものなんじゃないかと、しばらく思っていた。とあるさみしさとはなんなのか、まったく言語化できないでいたのだけれど、この記事を書いていて、ふと思い付いた。

寂しさの正体とは、諦められて記憶の隅に追いやられた自らの欲望たちの孤独感なのではないかと。寂しさは、仲間を欲するがゆえに宿主の欲望を何度も諦めさせようとして、依存のうちに留めておこうとするのだろう。けれど、孤独感がいくら寄り集まったところで、さみしさは解消されやしない。それどころか膨れ上がる。いや、それでも、それだからこそ宿主は、依存から抜け出せなくなっていく。そして、どこかで習慣が変わらない限り諦めることを選び続ける。

寂しいから、何かを頼る。 それは自律から遠ざかる一番簡単な方法だ。自律から遠ざかるということは、自分を少しずつ失っていくということだ。自己を失うさみしさとはどれだけのものなのだろうか。当然、寂しくないはずがないではないか。そして、さみしさは増大しつつ依存状態はループする。

つまり、全て1つだったのだ。言い直そう。素直な自分の欲望を諦めることで、さみしくなり、それが、何かへの依存状態を生み出す。依存状態は、それ以外のことを諦めさせていく。そして、悪循環の中に陥っていくのだ。

自分の欲望は自分自身だ。自分自身すらまともに満足させられない奴に、一体、何ができるというのだろうか。「誰かのために」という言葉は、あまりにも自己欺瞞の温床になり易い。その誰かもまた、まずその本人によって満足させられて然るべき誰かのはずだ。だから、人に優しくするということはむしろ簡単に手を差し伸べるな、ということにもなる。彼自身の独立独歩を奪う権利は誰にもない。それを守ることこそが、人という全体を俯瞰した時に最も優しい行為のはずだろうに。ならば、教育や慈善とは、一歩間違えれば、言葉の響きとは裏腹に、その受け手の自立を奪うことになりかねないそんな危うい取り組みでもある。

さて、諸刃の剣よ。どうか、そこについている血は自らのものだけであることを願う。