天上天下唯我独尊

優しさに出会うと、ついつい弱くなってしまいがちだ。利用してくるような相手に出会えば、なんとかして強くなっていくのかもしれない。仮に、甘えが弱さを、危機感が強さをもたらすのなら、出会いの傾向は本質ではない。強くなくてもいいし、弱くなくてもいいから、利用される状況は避けたいし、優しさと、もっと時間を共有したい。

閑話休題。人は違いはあれど上下はない。しかし地位や数字や所属によって勘違いをおこしがちだ。どんな状況、能力、性質であれ、僕らは皆、科学が正しいと仮定するなら分子の集まりに過ぎない。水素と炭素を比べたとして、希少性や有効な場面の違いはあれど、どちらが上位的存在などと誰が言うだろうか。

部分がそうであるなら、全体もまた然りだ。はたして、酸素と二酸化炭素、どちらが優れているかなどと議論する者がいるだろうか。つまり、優劣の議論とは、根本的にそのようなものなのだ。

さて、もう少し構造や性質を加えよう。男と女。子供と大人。生徒と教師。牛と豚。金持ちと貧乏。猿と人間。一万円札と千円札。鳥と魚。昨日の自分と今日の自分。さあ、もちろん違いは大いにあるだろう。比較する行為は普通だ。しかし、繰り返し思う。もし、優劣を議論する者がいるとすれば、そこには意義はなくて、悲しみと少しの虚栄しか生まれはしないと思うのだ。

人が複雑さを好むのはなぜだろうか。単純さに優劣をつけ難いからではないか。いや、いかに複雑にしようとも、そんなものはどこにも存在しない。一瞬のまやかし。上塗りは続く。何かに勝利することで、自信がついたように感じるうちは、だから未熟な証だ。

では、一体何を指針にすれば?僕も知らない。ただ、強固な指針というものが、優劣比較から導きだされるということは間違いなく無い。それは、自らの正直な欲求を突き詰め、考えを掘り下げ、その実現のために、必要があれば過酷さに身をさらしながらも、一段ずつ創造されていくものなのではないだろうか。