やる気、そして回復力。

やる気。つまり活動におけるエネルギーについて考えてみる。これは、体力と回復力の2つの要素に大きく分けられるだろう。例えば、いくら体力があっても、回復力が無ければ、やる気は持続しない。しかし、体力は普通以下でも、翌日は常に全回復しているような人ならどうだろうか。

日々は常に進み、そして体力は何もしなくても削られていく。どこまでこれが続くのか、だれも見当がつかない。平均寿命というのも確かにあるが、これも変動的で、個人差がある。社会を分析するのには役立つに違いないが、自分ひとりにとっては、たいしてあてにならない。つまり、重要なのは、どこまで日々が続こうとも、それに対応していけるような回復力なのだ。

よくよく観察してみると、やる気というものは、単純に持続させるものというより、日々、あるいは毎時毎時に回復させては消費を繰り返していくものだ。日々の試行錯誤は、いつだって終わりの見えない長期戦だ。そんな戦いで重要なのは体力の総量よりも、日々の回復力に他ならない。どんなに体力や情熱の総量が大きかろうと、やる気がつきた時点で何も出来なくなる。逆に、体力や情熱の総量が微々たるものでも、やる気が持続し続けるなら前者に勝る。冷静に分析してみると不思議なものだ。これで、たいして興味のない分野でも悠々とその道のプロとなった人の、その理由が分かる気がする。

では、回復力とはなんだろうか。達成感といった喜びであろうか。確かにそれもそうかもしれない。ただ、僕のイメージにより近いのは、滾々と湧き出る井戸水のそれだ。それは、何かを成し遂げた時の喜びからくるものとは違う。精力を浪費せず、日々の回復力にまわすことによって、生じてくるものだと思っている。

ある日、しばらく作業を続けた後に、頭が重たくなったので、そんなときは無理せず休んでしまおうと横になった。つまり今日は、無理をしても仕方がないと、休むことに決めたのだ。しかし、数分休憩しただけで、頭の重さは、湧き出てきたやる気によってどこかにいってしまった。

何が言いたいか。体力や情熱、確かにその総量は重要だ。しかし、何度も繰り返しになるが、現実に試行錯誤し戦う中でさらに重要なのは、それを維持していく、回復力の方ではないのかということだ。そして、それは日々の地道な自己管理にこそある。昔の人は、それを「慎独」と言ったのかもしれない。