理解されないという当たり前のこと。

人の気持ちを理解できないことがあるように、自分の気持ちだって理解されないことがある。当然のことだ。しかし、これは事実の一片を述べただけであって、自分の欲求に応じてくれる話ではない。

さて、例えば、何か解決したい課題があるとする。基本的に、まず問題を細分化して、それをさらに細かく分けて考えていくような、そんな解決を行うのは一般的だろう。

しかし、それにとらわれる必要はどこにもない。問いを見たとき、ふわっと全体的な何かと、核になるであろう何かが、さーっと頭の中を映像で過ぎ去って行く経験は、誰しもあるんじゃないかと思う。そして、それを後追いするように問題を解いていく。そこでは、細分化という手法は、答えの道を示すことにおいて重要な役割を担わない。

さて、こうした問いとの向き合い方は、人生にも共通する内容であるかもしれない。人生を段階的に切り分けて、それをなぞるように生きることもひとつだ。しかし、それぞれの瞬間を独立したひとつの円のようなものととらえてみることだって出来るのだ。つながっているという見方は、そう思えばそうであるし、そう思わなければ必ずしもそうではなくなる。

道にとらわれすぎては、その空間を広場と見なして、ゆるやかに遊ぶことを忘れてしまう。逆もしかり、ひとつの遊び場にとらわれてしまえば、その先にある海や山や川や、様々な景色を見逃すことになる。その境目を行き来するバランス感覚は、本当に自分に問いをたてて向き合うことでしか見つからないはずだ。

もしも、周りに理解されずに苦しむ人がいて、この文章を読んでくれているなら、どうか自分の内側が一番重要であるという当たり前の事実を忘れずにいて欲しいと思う。自分のバランス感覚が、仮に外に依存しているようなものなら、僕らは一体何を求め、どうやって生きればいいというのだろうか。

だから、むしろ、たいてい誰にも理解されないほど、自己を定義できたとしたら、もはや、自分を邪魔する者は誰もいない状態になれたということだ。ここはもう、「思想」や「覚悟」の話だ。

足跡のついていない道の楽しさは、そこを歩んでみて初めて分かる。誰にも知られていない秘密の基地やそれに至る細い道はいつの時代も少年心をワクワクさせる。繰り返し言おう。それは、自分だけが知っている楽しみだ。理解されなくて当たり前ではないか。そうであってこそ、それは誰にも譲れない秘密基地としての価値を持つ。いつだってそこが心の中心だ。