回転が回転を呼ぶ

生きている限り、自ら発するエネルギーの総量は、ひたすら積み上がり続けることになる。それは循環という方が正しいかもしれない。

風車をイメージしたい。風が風車を回し、その力がモーターなどを通じて、例えば電力に変わる。通常、こうしたエネルギーの総量は、末端へと進むにつれて、途中のロスなどで減少していくものだ。

さて、自らが発するエネルギーの話に戻ろう。風力の代わりにこのエネルギーが、風車を回すイメージならどうだろうか。発する気力などが、途切れずに、風車に働きかけるならば、回転の速度は上がり続ける。どこまでも。その力はまた何かしらの働きに変換されては消費されていくが、動源からは渾々と力が湧き続け、動力を増していく。すると、何が起こるか。自分が働きかけうる全ての風車や、それに連なるモーターなどは、気力や精力を向ければ向けただけ、ひたすら回転速度を上げていくのだ。

話を飛躍させよう。

たとえば、何か計画を立てるとき、大抵の場合、回転数は考慮しても回転速度については見逃している。無論、速度については未知だから考慮のしようはない。ただ、回転数を判断基準とするのは、なんとももったいない。自らを侮りすぎだ。

ここに、ある一定の力がなければ回らなかった巨大な風車があるとして、その閾値をいつの日か、自分の力が超えた時とてつもない動力が生まれる。現代におけるプログラミングはいい例だろう。できるとできないでは、見える世界は大きく違う。しかし、ハードルはそこまで高くはない。

未知を考慮しよう。計画を立てるなら未知であることを、そこに組み込むのがよい。すると、想像以上が訪れようと想定内だ。あらゆる速度はいつだって想像を超えていくものだ。それをいつだって想定しておきたい。