技術と本質の乖離

あらゆる疑問に対して、すぐさま答えなどないのだと考えたりせずに、とりあえず向き合い続けてみる。すると、本質に近づけることもある。それが想像を喚起して、そこから発想が生まれ、自らがいまに対して、いかにあるべきか、なにをすべきかと、環境や時間や価値観などの 縛りから少しだけ解放された思いにたどり着けたりもする。

さて、実現の問題がやってくる。いかに成すべきか、これが曲者。突然現実に戻されて、その手順やコストやリスクを自分の頭と身体、財産に向けて投げかけてくるのだ。それはほとんどがあまりにも多量の情報で、その処理は一朝一夕で出来ないどころか、多くの未知数を含んだ問題だ。さらにその式も人によって異なるから、自らの感覚や直観などを通して手探りの式を算出し、おぼろげな解を導き出しその検証を繰り返してはやり直すようなそんな日々を求められる。

実際のところは、そうした客観的な苦労に比べると、主観的には、行動に伴う汗や疲労が心地よかったりもする。また、無理をせずに精進を続けていくなら、その足跡は何もしなかった時に比べると、蟻と巨人の足跡ほどの差になるのではないだろうか。

さて、本質を現実に成すためには、時に、それとは矛盾するような行動や技術に取り組まねばならないと思うときが確かにある。ただ、そんなときに冬の木を見て考えたことがある。彼らは一度枯れる。今まで繁らせ続けてきた全ての葉を足下にふるい落す。それは自然の摂理だ。彼らはそうして年輪を重ねては、世界の一部として何度も何度も貢献し、命を全うしていくのかもしれない。

今は乖離と見えるものでも、全体を俯瞰したとき、きっと四季のごとく、美しさの一部をかたちづくっているに違いない。