自分という領域

世界の認識は人それぞれだ。環境の用い方も人それぞれだ。

例えば、誰かが一生懸命に取り組んでいる物事に、軽い気持ちでチャレンジしてみようとする人がいる。さて、ある人は言うだろう。「軽い気持ちで始めないでくれ、こっちは真剣なんだ。」

いやはや、もっともだ。しかし、だからといって、その者に誰かの自由を奪う権利はあるだろうか。主張は聞こう。ただ、それに従うかどうかは別問題だ。真剣さを参入障壁に用いる人々は多い。あるいは、言い訳として用いる人々もいる。

自分の尺度をを強く持たなければなるまい。物事への態度をどうするかは、根本的に自分の自由だ。仮にそれを批判されようとも、その者に客観的な危害が加わっていないとすれば、何の問題もない。あるとすれば、それは批判者が行っている価値観の押しつけが問題であるだけであろう。

道義的観念。失礼や、真剣さ、尊さ。そういう言葉に人は弱い。こうした言葉は、有無を言わせずに、同情や羞恥心を引き起こすからだ。そんなときこそ、強くありたい。「お前らには関係ない。俺の自由だ。」そういう強さを、あえて口にはしなくとも忘れないようにしたい。

人の創り出している環境を、自らの価値観の枠の中だけで批判してくるような者たちがいるとしたら、僕はこう言ってやりたい。

「ここは君たちの領域ではない。」