考えてみること

何かを、ただただやってみたいと思う。理由は特になくて、あるとしたら、かっこよさそうだからとか。そう思って少しだけ取り組んでみる。いきなり難しいことをしようとしなければ、着々と成長をできるので、それもまた楽しい。このままゆっくりと継続していけば、死ぬまでにどのくらいの成長ができるのだろうか。そんな風に思うことがある。

一方、ある段階になってくると、必ずと言っていいほど、比較の問題がやってくる。一番分かりやすいのは、能力には価値が付きはじめると、それを金銭ではかるようになる。すると、ゆっくりと取り組み続けることは、それまで悪いことでもなんでもなかったのに、そこからは、強迫観念のように「一秒でも早く」という感覚が、自分を支配しはじめることによって、焦る。

焦るのは、比較する対象がいるからで、下を見ては見下し、あるいは安心し、上を見ては嫉妬し、あるいは憧れる。感情は複雑になる。すると、やっていることは正しいのだと納得させるために、目的や理由が必要になる。さて、当初の自分は何処にいってしまったのだろうか。ただただやってみたかったことだっただけなのに、いつしか「何か大いなるもののため」になった。まるで、何か立派な理由がなければ、行動してはいけないかのように自分を勘違いさせた。まるで、価値を生まない行動には、何の意味もないかのように自分を勘違いさせた。

たとえば、幸せや成功などを求めているときの状態は、依存の症状に似ている。実際のところ、それらに、本当に意味や価値があるのだと、誰から見てもそうだと分かる証明をした人はどこにもおらず、それらはただ人々が熱望しやすいということが、観察できるだけにすぎない。思い込みに近い。

生きるということも同じはずだ。生まれてきた人々は、生き続けることを選択する傾向が強いという話で、その意味や理由は、全て後付けにすぎない。死を選択する人々の割合が高ければ、それが常識となり、その意味や理由はもっともらしく後付けされる。日本の歴史において、切腹は美徳の一つとして存在したらしい。一度、傾向が常識としてとらえられはじめると、その集団では、そうではない者を除け者として扱うようだ。

確かに集団には力があるように見える。しかし、その力の背景を辿るなら傾向以外に何もない。つまり、その力は傾向さえ変われば変化してしまう根拠のないものだ。自分の直観からはじまる行動と周囲の傾向に依存した力からはじめる行動を比べて、はたして前者が後者に劣る部分がどこにあるだろうか。一見、両方とも根拠はないように思う。

さらに考えてみると、自分の直観というのは、自分にとっては、それだけでも十分な行動原理だ。もしも、この行動において、まちがいに気がついたのなら、直観を修正するのは自分の仕事になる。周囲の傾向に依存した力に従うのは、「みんながそうしているから」という理由に納得できなければ、後付けの根拠を見出して納得する必要がある。しかも、傾向が変わるたびにそれを行わなければならない。少し落ち着いて考えてみたい。

集団的な傾向は常に過剰と過不足を往復する。それに対して右往左往するのは、それこそ無駄に感じる。価値観とはある種の方向性だ。方向性は、前進を旨としている。あっちにいったりこっちにいったりと、それが自分の意思によって行っているのでなければ、何をしたらいいのか分からない状態になるのは当然だ。

だから、前に進むよりも大切なことがあるのだ。それは、前に進みたいかどうかだ。その判断は自分でするもので、その責任は自分で負うものだ。さらに言えば、方向性こそ、自分で決めるものだ。

考えてみることは、不安定で自由な作業だ。誰の支配も許してはならない。自分とは、全体の部分であると同時に、独立したひとつであるのだから。