自分の胆力

自分の不満は、自分のものだ。自分の欲望も、自分のものだ。他人任せの人間に、満足は大抵訪れない。自分の環境は、自分で創るものだ。人から与えられた何かがあるとして、妥協点を探るような生き方は、あまりに受動的過ぎる。

不満があるのなら、全てを一から創り直せばいい。あくなき欲望を、嘆きや不満に変えるのか、それとも、バイタリティやエネルギーに変えるのか、それはいつだって、自分の手の内にある。

さて、精力善用という言葉がある。エネルギー自体に善悪はない。それを用いる人間がいかに使うか、また、それを受け入れる社会がいかにそれを捉えるか、それが問題だ。

物事には原因と結果があるけれども、ある結果や状態が悪いからといって、その原因をも即座に悪視することは非常に愚かだ。それは一元的に定義できることの方が稀であり、入り組んだ構造をしている場合の方が多いからである。

たとえば、無期懲役や死刑、そして時効の制度はその具体例になる。

仮に、死刑に値するとされた犯罪者全てが死刑に処せられた場合、本当は冤罪であった人がいたとしても、その人はもう二度と戻ることはない。仮に、本当は冤罪でかつ、本人にアリバイが立証不可能な場合、時効という制度が存在しなければ、死ぬまで罪に問われる場合も考えられるのだ。

こういう議論においては、特に、特定の個人の強い思いである「死刑を執行せよ」「時効をなくせ」という情動的な側面が注視されがちだ。しかし、もし死刑が遂行されなければ、それによって最悪救われる可能性を有している人々というが潜在的に存在しているということこそ忘れてはならない側面であろう。

これは希望の問題でもあり、実際的な問題でもある。実際に自分自身が、無実の死刑囚、あるいは無実の犯罪者として追われる身であることを想像してみたい。すると、最も愚かなのは、犯罪者を殺さないことや犯罪者が時効によって罪を逃れることではなくて、無実の人を殺してしまうことや、無実の人が死ぬまで許されることなく追われる状況であることが明白なはずだ。

また、食事について考えることもいい具体例となるように思う。まず、食事とは、他の生命を奪うことだ。つまり、根本的に悪だととらえるならば確かにそうだろう。こうした考えをするなら、そこに想定される本当の善人とは生きることすら出来なくなる。仮に、彼が、種や果実のみを食糧として生きていたにせよ同じだ。シンプルに考えて、もう少しで赤ん坊になれたはずの細胞を噛み砕かれたとしたら、それを悲しまない親はいるだろうか。しかし、僕たちは皆、食べるのだ。それが食べられるならどんなものであれ食べる。哀れみの感情よりはむしろ、感謝や、喜びの感情によって食べる。他の命を美味しいと言うのだ。

全てに善悪はあると想定したにせよ、その構造は大抵、こんなふうにして複雑に入り組んでいて、完全にどちらかだと断言できるようなことは本当に少ない。同様に、正しさや間違いもそうだろう。

だから、比重の問題を考えたい。どちらかだと断定できない場合であれば、判断するためには、よりどちらかであるという判断を用いればよいからだ。たとえば、一般的に言われているメリットやデメリットを天秤にかけて、比重がメリットに傾けばそれを選び取る。それは、おそらく、確かに分かりやすい選択の方法だ。

しかし、もう少し考えてみたい。そうした選択の方法は本当に信頼するに値するだろうか。選択は、常に行われる。その決定主体は誰だろうか。本当にそうしたメリットやデメリットによって行われているのだろうか。本能と理性の狭間で、そんな天秤は時として狂ってしまうに違いない。

ただ、「天秤は狂うのだという自分の経験」ならば、下手に一般化さえしなければ、何よりも信頼できる材料になる。ならば、それを軸とした方が、より確かな選択になる。

一般的に言われている何かを簡単に、判断材料に用いるのは早計過ぎる。自分にとってあっているか、それともあっていないかは、自分によって経験し、その経験値を判断材料として、その上で選択を行うことが、自分にとって最適と思う道を歩むための確かな一歩目になる。

時は常に選択を迫る。いつだってその判断材料は不足している。時として、誰かにその選択を間違っている言われる時もある。しかし、そんなことはどちらだって構わない。ひとつひとつの選択を自分の経験値によって行い、そして成長し続けるならば、最適に近づいていくことは明白なのだから。

そのために必要なことは、多くの知識を手に入れることよりも、わずかでもいいから体験をもとにした確からしい知識を、自分や社会という実験台で様々に試してみるということのような気がする。そこでは、知性よりも、むしろ「小賢しく臆病な知性を黙らせて進んでいく実行力」が肝になる。もしかすると、昔の人は、その実行力のことを「胆力」と呼んでいたのかもしれない。