知ってもいない。

何かを読む。何かを聞く。何かを見る。感覚は能動的なようだが、実はそのとき、自身の行動自体は受動的なことが多い。 ゆえに、ついつい、勘違いを起こしてしまう。早合点が知ったつもりを引き起こす。知ったつもりは最悪、知ったかぶりに変わっていく。知ったつもりの弊害は、とにかく非常に大きい。

性格の傲慢さと浅薄さが、話す言葉の間からこぼれ出す。目の前のチャンスを見えなくさせる。知識は自尊心のためのジャンクフードと化していく。例えば、読書。行動を伴わない読書は、それがどんな良書、佳書であれ、まるで身になりにくい。水彩絵の具で、どんなに綺麗な色を作ろうとも、空中で筆を振っているだけでは、絵を描くということに関しては、なんの意味もないということをイメージしてみると、分かりやすい気がする。むしろ、周りを汚すだけだ。

何かに出会う。そして何かを調べる、観察する。仕組みを理解する、文献を漁る。すると一見、自分自身であろうとも、それをなんとなく知ったような、気になってしまうのだろう。気をつけなければならない。体験する、実際に試してみる。そういった試行錯誤無しで、本当の意味における、知るということはありえない。

やってみなければ分からないことは、世の中に山ほどある。やったこともないのに、ぺちゃくちゃと高説を垂れる連中に影響されるほど人生の幅を狭める方法はない。一番確かな歩みは、自分でやって確かめることだろう。どんな些細な事柄でさえも。

以下、追記。

以前、この話について、とある人と話したことがある。その人は、こう言っていた。「それは危険薬物の使用についても同じことを言えるのか。」確かに考える必要がある。全てを体験によって知ることが、もしかしたら、いつも正しいとは限らないのかもしれない。極論、生命を奪う行為が正当化されるかどうか、そんな話でもあるからだ。

しかし、僕は個人的に思う。失敗することは成功することと同じか、それ以上の価値が常に内在していると。たとえば、命の尊さを感覚的に語る者よ。いつからそんなに偉くなったのだ。全ての要素は平等だ。性質の違いはあっても優劣は存在しない。世の中には沢山の存在がある。どんなに生活の崩壊した人間だろうが、誰よりも裕福な生活を過ごす人間だろうが、その人格的な優劣はない。あるとすれば、ただの妄想だ。

痛みは自らで味わうことで、初めて痛みとして認知できる。恋心は、小説や映画の中ではなく、実際の感覚を通して知るしかない。 

最後にひとつ。人生はそこまで長くないかもしれないから、全ての事柄を、体験によって知るべきだとは思ってはいない。しかし、本当に知りたいと思うことは、自らの身体を通して知りたい。仮にそれが、いかに危険と言われているようなことであれ、それだけは譲れない。