感覚の質を高める意義。

気持ちよさや、心地よさを求めているとき、求めたいものは"快楽そのもの"だけであろうか。きっとそうではない。気持ちよければいいという人がいたとしても、快楽だけに目が向いているだけでは、どうもよりよい快楽を感じることはできない。それは、量だけではなく、質の問題でもあるから。もし、量だけを問題にすれば、次第に効用は逓減していき、いつしか倦怠をむかえるものだ。

中心的な気持ち良さだけを抽出し、それを消費するような文化が流行っているような気がしているが、流行に惑わされてはなるまい。

たとえば、まったく同じ見た目、同じ栄養を含むりんごが、ここにふたつあるとしよう。片方がスーパーなどで大量に売られているもので、もう片方が自分で苗を植えて、何年かかけて、いちから育てたものだとして、味はどう違うだろうか。何も知らない他人が、仮に同じようなものだと言い捨てたにせよ、自分にとって感じる美味しさは味覚のそれに頼るだけのような、つまらない感覚ではない。

快楽に善悪はない。それを獲得し、享受する主体の態度が問題だ。過程の大切さは、さることながら、そこでは、優しさや賢さが必要だ。それらは、感覚的享受に対する考え方や姿勢を変える要素となる。

だから、快楽に耽る時間があるならば、自らの人格形成の時間として用いたい。優しく、そして賢くあろうと努めるならば、必ず感覚の質は向上する。そして認識している範囲、つまり感覚をとらえている時間と空間は拡大し、その分、より質の高い快楽に浸ることもできるようになっていく。そこに制約や際限はない。

人が快楽を求めずにはいられないのならば、ありのままに求めていきたい。ならば、よりよい獲得と享受を思案し、試行錯誤していきたい。すると、必要なものが浮かび上がる。少なくとも、優しさと丁寧さ、そして賢さだけは、どうも外せない要素であるように思う。