循環は、平等の姿。成長は、支え合うために。

すべての性質は、乗り物に付随している。乗り物は性質を降ろしては乗せ、それを繰り返す。すべての乗り物は、その構成の一部に注目するなら、同じものでつくられている。乗り物は世界を回る。ときには、くっつく。ときには、はなれる。それを繰り返す。小さな乗り物、大きな乗り物、形が面白い乗り物、目では見えない乗り物、いろんな種類がある。

そこに乗っかる性質たちは、どうも競い合うことが大好きだ。勝つために強く。負けないために強く。そんな風にして、性質を研磨する。

しかし、大抵あるときに気がつく。「あれ?今こうして戦っているのは、実は自分と同じような『乗客さん』ではないのか。」「ならば、戦う必要はどこにもないのかもしれない。」

ならば、誰かを負かして喜ぶなんて、悲しいことはやめたい。ときには、誰かに勝って、自分が少し偉くなったような気がしていたけれど、誰かに勝っても負けても、自分は何も変わらない。自分は何も変わらないのだ。なら、なんで、みんなで強くなろうとしたのか。少し考えてみたい。

乗せる性質が、よりよいものであれば、乗り物たちは、よりうまく世界を回っていける。交通ルールは、そこにあるものじゃなくて、みんなで考えて、みんなでつくりあげて、みんなで守るもの。だから、より主体的で、より知的で、より創造的で、より一貫的な、そんな乗客だったら好ましいわけだ。したがって、みんなでよりよく、より強くなろうとしたのかもしれない。だとすれば、最初の最初は、ただより円滑な交通をみんなで共有しようって話だったわけだ。移動がスムーズなら、より旅は楽しくなるかもしれない。渋滞が減れば、楽しめる時間が増えるかもしれない。「だったら、ゆっくり行きたい乗客のためには、ゆっくり専用の道路を整備しよう。早く行きたい乗客のためには、早く行けるような道路を整備しよう。」きっと、そんなシンプルな話だったのだ。

さて、そこにおいて「強さ」は必要だろうか。たしかに、誰かを助けるために必要なときはある。でも、それならまず必要なことは、優しさであろう。では、競争は必要だろうか。たしかに、競い合えば成長は、はやくなるかもしれない。でもそれならまず必要なことは、成長したことで何に役立つのか、何につながるのか、自分に何ができるのか、そういうことを考えるための知性であろう。

全てが循環しているなら、全ては平等だ。循環が成長をもたらすなら、成長は循環を円滑にするための優しさと知性を土台にしている。世界の一部として、自分という言葉を見つめなおせば、なんでもできて、なんにでもなれる。あるがままにあって、つまり、自由なのだ。