自己肯定と距離感

自分の欲望に対して「これでよし」と、自分で本心から思うことを目指すほど、過酷な生き方はないと感じる場合がある。つまり、自己肯定とは、死ぬよりも難しく、おそらく辛いことがあるのだろう。

それと比べて、誰かから認められるということは、だいぶ容易いことのように思う。自分で自分を認めるよりも、誰かから自分を認めてもらう方が、明らかに簡単であることも多い。だから、時として、この傾向によって、誰かから認められるための人生を歩み続けるのかもしれない。そして、それと同時に、自らが自らの王者として生きることを避けるようになっていく。

積極的思考の欠陥は、自己肯定の過酷さにある。自分に対して「これでよし」というためには、少なくともまず、自分の欲望を全て自分の器の中に収める必要がある。しかしそれは、永遠と流れ落ちてくる滝の水を、バケツひとつで全て汲み取ろうということと同じくらい難しい。もしも、たった一滴でも「ああ仕方ない」と諦めるようなことがあれば、完璧主義者の傾向が強いものほど苦しむことが想像できる。

時は止まらないし、欲望に際限はない。取りこぼしのない人生など存在しないのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、欲望は全てを求めるのだ。「1秒たりとも無駄にするな」という言葉には、どれだけの貪欲さが潜んでいるのだろうか。

本当に無駄にしてはいけないことは、時間でも空間でもなく、欲望も含めた自分自身そのもののはずだ。人生の設定や、習いの言葉、宗教や道徳の負の側面に毒されて、自分自身を見失ってしまっては元も子もない。

概念は道具だ。自分をより徹底して生かすための手段にすぎない。想像に支配されては、想像の意義は薄まるだろう。想像とは自由で、一番の拠り所で、出発点でもあり、しかし、実態のないものなのだ。とらわれれば、とらわれるが、とらわれなければ、何もないことと同じだ。夢から覚めるように、あらゆる想像や概念も覚めてしまえば、なんとも笑える話であることが大半なのだ。ならばなぜ、あえて何かに縛られる道を歩むことを選ぶ必要があろう。

視点を一段上にあげて、縛られる生き方も縛られない生き方も、どちらであっても、それは想像の中の話に過ぎないことを意識しておきたい。そうすれば、自己肯定の過酷さから、目を背ける必要もなくなる上に、必要以上に深刻に向き合うこともなくなる。すると、もっとゆるやかに自己との対話を続けていけるような気がする。

誰かの言葉を思い出す。「自分や他者を含め、何かを見る時は距離をとって見るといい。なぜなら、近すぎると短所に気を取られるが、遠目ならば長所が浮かび上がってくるからだ。」