やらないことによって。

決定と責任を自分に委ねて行動するとき、最初は、意欲が動機となるだろう。しかし、意欲だけでは、物事は思うようには進まない。いや、もちろん進むときも確かにある。ただ、道程において困難に直面したとき、それを乗り越えるのか、目をそらし続けるのか、その選択することになる。そこでは、意欲に加えてもっと泥臭い負けん気とか、粘り強さとか、根性とか、言い換えると、強度のストレスを自分に与える姿勢みたいなのが、たぶん有効なことがある。

そこでは、楽しみとかやりたいとか、最初の動機という目的のために行動を起こすというよりも、なんだろうか、ストレスのかかった状況自体を、多少なりとも気持ちよく感じるようなものなのかもしれないが、その状況こそが行動を引き起こすトリガーの役割を担う。もちろん、確かに辛さはあるのだけれど、同時に快楽のような何かがあって、言葉では矛盾していることでも、実際、そういうことなのだろう。

心地良い選択をするっていう自由は、あらゆる始まりの根幹にあるけれど、さらに、幹を太くしようと志すとき、それだけではどうもいけない。ストレスを避けるのではなく、ストレスを喜びに変えてしまうような、感覚を目覚めさせておけば、あとは勝手に育つに違いない。ただ、それは誰もがしたいとは、思わないことだと思うし、いざとなれば、ストレスに興奮を覚えるなんて、馬鹿げたことのように思い、我に帰る可能性は十分にある。

ちょっと話がそれてしまった。話を大きくふり戻す。生き方の話をしたい。 

たとえば、目的地を目指すとき、地図に印をつけて進むことは多い。つまり、目的地にたどり着くためにどうしたらいいかを、考えることが多いかもしれない。けれど、もしも 、仮に地図も何も持たずに、ただ歩いていること、それ自体に喜びを見出せたとしたら、とてもシンプルだし、それでも歩みは進むのだとしたら、本当に地図や目的地は必要なものなのだろうか。

また、困難な局面と思われるところも、辿り着くという意識とは関係なく、ただ歩くことの喜びに気付けているのなら、勝手に通り過ぎていくだけのことなのではと、思っている。だから方法論や、やる気を奮い立たせる啓発の言葉は、もはや不要になるかもしれない。

はなから目的の場所は存在しない。それは日々を充実させるために考え出された架空の印だったのだ。持っていた宝の地図は、目的地にたどり着くためではなく、日々の歩みをよりエキサイトさせるための手段の1つであったはずだ。

  目的をただ眺める日々が続いているなら、それを一旦どこかに忘れたことにして、もう一度、日々の歩みに集中しよう。何のためにではなく、ただあったことをそのままに。たとえば、朝飯を少し食べた。昼飯を食べに出かけた。お茶を飲んだ。連絡を取り合った。喧嘩した。少しだけ気分が滅入った。眠気が襲ってきた。夕飯をたくさん食べた。月を見た。横になった、とか。そういうところにこそ、ヒントがあるはずだ。

同じ日は二度と来ない。同じ過去は存在しない。似たような過去があるとして、それが反省が必要なものなら、目の前の歩みを蔑ろにしている証拠だ。畢竟、改めようと感じたことを、次に改善することでしか、何も前には進まないのだ。やってはいけないと自らが感じたことに、日々注意を払い続けることによって、そこに何かが生まれる。

やることによってだけではなく、むしろ、やらないことによって、大事なものは育まれる。意欲はそれだけを軸とするには不確かだ。注意深さ、あるいは慎重さが、創造力と実際の労働を形に変えていく。

夢は意欲によって描かれるが、現実は、目の前の一歩への集中力と、それに伴う慎重な労働が彩りの全てであろう。