節制における無為の意義

快楽は、その喜びを共有する誰かが側にいなければ、瞬間的な興奮と、その反動である落ち込みをもたらす。こうした快楽を孤独な快楽と呼ぼう。

時間という誰しも平等に与えられたものを何に費やすのか。生きるということは、取捨選択から成る。よりよい生き方をするとは、よりよい選択をすることだ。時間を用いるには、時間だけでなくエネルギーを必要とする。これに関しては、その人の性質で少なからず総量が異なるだろう。エネルギーは用いられれば、消費され、そして循環する。また、日毎に回復する。時間は常に消費されていくが、エネルギーは使わなければ保存される。

さて、1日に与えられた時間もエネルギーも無限ではない。だからこそ、選択が重要なのだ。その無限ではないリソースを何に費やすのか、常に考えて選び抜いていかなければ、必ず後悔する。時も力も、つまり過去は元には戻らないからだ。孤独な快楽に身を費やした分だけ、人生の喜びは減るということを知れ。瞬間的な興奮は、その文字どおり、持続性はなく何も残しはしない。自らの歴史として語るには、あまりに情けない瞬間であるだろう。

生きることを与えられたのならば、何よりもまず、よりよく生きることを目指すのが普通だ。その「善」は、自らで見出すものだ。まずは直感に従おう。そして、様々な視点を持ちながら、考えを深めていけばいい。よりよくあるためのシンプルな原則は、無駄にしないことだ。無駄にしないとは、どういうことだろうか。

まず、時間は何もしなければそれだけ過ぎ去るので、無駄になるか有意になるかは、常に隣り合わせだ。しかし、エネルギーは違う。保存することができる。だから、孤独な快楽にエネルギーを浪費するくらいならば、いっそのこと何もしない方がいいのだ。さて、そういうときの、何もしないという選択は、決して無駄ではない。時間の観点からも、エネルギーの観点からもだ。浪費を避け、エネルギーを保存することは、時として、何かを成すよりも重要であるのだから。

しかし、その理由は、よい選択ができるかにもかかっていることを忘れてはならない。意識して浪費を慎んだ後は、蓄えたリソースを、自らが誇りとできる事柄に注力しよう。誇りは、胸の中にある。どうか、死に際において、自分で自分を恥じることのないように。慎独を誓って。