第一歩。依存を受け入れる。

まずは、依存を受け入れよう。最初から、それを抑制しようとか、禁じようとかするのではなく、もう受け入れてしまって、その上で、ただ充実した日々を歩むことを目指そう。

制限をかけるとすれば、依存そのものについてではなく、その背後にある怠惰さについて、考えていく必要があるのだ。仮に、何かに強く依存していたとしても、社会的責任とか、個人的幸福追求とかが、日々果たされていくならば、はたしてなんの問題があるのだろうか。もちろんそれらについて本当に必要かどうかは、それぞれが考えることではあるが。

さて、結果として、日々が充実していくならば、依存の要因の最も深いところにあった何かが、薄まっていくことに気がつく。もし、抑制の方法を探しては、それを列挙しては試すような苦労をしているとしたら、もしかすると、より列挙したほうがいいのは、do not ではなくて want to なのかもしれない。もし、試行錯誤そのものに喜びを覚えるのだとすれば、抑制の方法と同時に、したいことについても考えていくことで、2倍楽しめるかもしれない。思考の相補性は成長を加速させるのだから。

さて、逃げ道に逃げ込んでしまうのは、目の前に逃げたくなるような何かがあるからだ。ただ、それは、嫌なものとは限らない。好きな人が出来た時に、ついつい避けてしまうような、そういうことかもしれないからだ。向き合う、と口で言うのは簡単だ。でも、距離を縮める術はそんなに多くない。一歩ずつ前に進みながら、まず自分をその感覚に慣らしていこう。日々たゆまぬ一歩を踏み出していくなら、偶然や運は必ず味方になってくれる。

だから、自分だけでは成せないと、思っていることがあっても、やってみたらいいんだ。本当に優れた道を歩むとき、一人きりで歩み続けることのほうが、よっぽど難しいことに気がつく。勝手に仲間が増えていってしまうものだ。

為さざるあって、成すあり、とは言うけれど逆もまた然りだ。つまり、依存したままでも大丈夫だ。それでも自信はそこなわれなんかしない。まずは、今のままでも大丈夫なんだと、気がつくことから全てが始まる。