”簡単”の主観性

誰かの簡単という言葉を素直に受け取ると、たいていその大変さに驚く。もちろん文字通りのこともあるけれど、今回扱う"簡単"はそちらとは区別したい。

例えば、一番分かりやすいのは言語だ。10代の方に聞いてみよう、母国語を話すのは簡単かどうか。さて、今度は大企業の社長に聞いてみよう、100万円を1日で稼ぐのは簡単かどうか。本質的な問題を突き詰める人なら、すぐさまそうだとは答えないだろうが、技術的にどうかと問うならどうだろうか。

次は身近な人に聞いてみよう、自分の母親だ。料理をつくるのは簡単かどうか。さあ、自分にも聞いてみよう、人が簡単と答えたことに対して、自分はどう答えるのか。あるいは、人が簡単ではないと答えるようなことで、自分はなんともなく出来ることはないか。

おじいちゃんに聞いてみよう、最新機器を扱うのは大変かどうか。その道のプロに、その職業について聞いてみよう、何が簡単で、何が大変か。まずもって、こうした質問は、ほとんど自分の役に立つことはないだろう。あらゆる人々は、その人それぞれに立っているステージが違う。それは高い低いだけで判断できるほどシンプルなものではない。技術ひとつとっても、複合によって新しい命を芽生えるものがいくらでもあるからだ。

話の階段をあげよう。生きることは簡単だろうか、それとも大変だろうか。日々を楽しむことは簡単だろうか、それとも大変だろうか。

僕はこの質問を、誰かの言葉の中に、何かの答えを探してしまう時、自分自身に対して問いかけたい。