自己規律

依存と向き合ったり克服しようとしたりする手法の、良し悪しについて議論する記事を、何度も目にして気がついたことがある。技術や手法そのものの良し悪しを、検証したり論ずる前に、もっと大切なことがあることを、僕たちは忘れがちなのではないかと。

それは、良いと仮定したことを、結果の良し悪しに関わらず、とにかく変更せずにやり抜くという最も根源的な力のことだ。もし選択した手法が良かったにせよ、あるいは悪かったにせよ、やり抜く力がなければ、はたしてその手法を見つけ出したことに、なんの意味があるのだろうか。

柔軟性の大切さを説く話は多い。その理由は、一度決めたことを変更してしまうことを、正当化したいという人間くさい部分と、きっと無関係ではないだろう。一貫的であることは、結果偏向や直近偏向が強ければ強いほど困難だ。しかし、一貫性という才能も、もちろん能力の一種だろう。ならば磨き上げることも可能だ。

だから、依存と向き合うことだけに留まらず、何かを始めるとき、初めに行うことは、方法論の良し悪しを論ずることではない。良いと考えた方法ならば、その結果が何十年と現れなかろうとも、やり続けることのできる一貫性を身に付けることが最優先だ。まずは短期間でも自分自身にとっての最適について、データを取りながら試行錯誤する必要がある。

そうして初めて、他人のものでなく、自分自身のデータが集積される。体験に根ざした客観的なデータさえあれば、良し悪しを論ずる不毛な時間はなくなる。例えば数字として現れるなら、即座に断定できるし、あるいは比較は一目瞭然だからだ。データが足りないと思うのであれば、期間を延ばして検証すればいい。そして、その結果として、判断能力に確信がうまれ、さらに方法の実践に自信が付く。こうして、一貫性は強化される。

仮に、良くない方法論を、何十年と続けてしまった場合、どうするのだと言われるかもしれない。一段高い視野を持って、それは次世代にとって、どれだけ有益なデータとなるだろうかと考えてみると面白い。

それと、身近な例をいくつか挙げてみたら分かりやすい。○○が上達する方法、と題してあるものがたくさん溢れているはずだ。確実性を確かめたいのであれば、まず自分に強固な一貫性が必要なんだ。もっとよい方法は無いかと、探し続けることに力を用いる前に、どれか一つを選び取って、何日も継続していき、かつ記録を取るならば、その効果は数字としてはっきり表れる。

一方で、どの方法も、数回試しただけで、ふらふらと青い鳥を探しているならば、その旅に終わりは来ないだろう。最善の手法の前に、最適な自己規律が必要なのだから。