個人とは何か

自分にとって重要なことは、他人にとってはそれほどでもないことがある。これに関する誤認からの脱出、そして相互理解への出発は、価値観の違いという言葉で一応の終着がつけられるのかもしれない。

いや、そうなのだろうか。一体、価値観の違いとはどんなイメージなのか。その定義を再確認するのではない。実際にこの言葉が生きているためのステージの話だ。それは、単なる妥協や知恵かもしれない。

例えば数学の問題があって、答えを導くまでに途方もない時間がかかるとする。答えを導く意義よりも、その時間を別のことに費やすことに価値を感じたことで、それにより途中まで解いていた問題を一時停止するとしよう。その行為は時に立派な判断力として認められる。

しかし、一方で解き続ける者もいよう。なによりもそのことに価値を感じているならば、周りの人間の九割が一時停止を選択していたとしても、そんなことは関係ない。もちろん解き続けるのだ。こちらであれば時として、立派な継続力として認められる。

さて、価値を感じる受容体の総数はどれほど存在しているのだろうか。価値観とは前提として、それぞれ違うものだ。もしそうでなければ、尺度に意味はあるだろうか。

だから、価値観の一致という言葉はよく分かる。本来違っていると仮定しても、一致する場合はあるからだ。しかし、本来違っていると仮定しているはずのものが一致しない時に、価値観の違いという言葉が使われる。それは前提通りのことなのに、この言葉は一体なんなのだろうか。

どうやらそこには、同一化の圧力と衝突がある。さらに言えば抑圧や支配、つまるところ他者を見下す目線がある。傲慢さの良し悪しは別に問題としない。気になるのは、それを覆い隠してしまうこの言葉の不気味さだ。衝突によって浮かび上がる自らの欠点を正視することなく、わけのわからない言葉を持ち出してごまかし続けるならば、衝突が生じた背景にある不快感や反発心はわだかまり続ける。その結末は悲しい孤立と崩壊だ。

支配者気取りの自己欺瞞に気をつけよう。目線に上下は存在しない。あるのは多様さだけだ。自分が誰かと違うと感じることはその通りだが、優劣を感じることは無駄だろう。もし、そう思うことがあって、かつ気分が良くない日々が続くなら、今いる場所から早急に離れる方がいい。それは、上に感じていようとも下に感じていようとも、どちらも同じくだ。

ないものをあると言ったところでないものはない。探しても何も見つからない。その感情に解決は存在しない。あると感じる理由は、比較してくる存在のせいか、比較してしまう自分のせいか、どちらかであるし、仮に全てが自己の責任だとしても、比較にさらされる中でそれを毅然と無視できるほど強くはないならば黙って逃げた方が賢い。

さて、もっと掘り下げよう。ランキングの楽しさは直感的にも、体感的にもよく分かる。しかし、自らや他者を傷つける可能性に気がついたときでさえ、そこまでして比較し合うことに執着してしまうのはなぜだろうか。そこに自らの必要性を見出すからか。そうであるなら、数字や客観的判断基準と自らの存在意義が同化してしまうかもしれない。

さて、つまりそれによって、"価値観の違い"という言葉が生まれるのだ。それは比較対象がいて初めて成り立つ存在意義に他ならないではないか。だから誰かを見下していなければならない。あるいは、誰かを見上げていなければならない。そして、見下されれば悔しく、見上げられれば浮ついてしまう。もはや、客観性が過ぎるだけに、自らの基底にある感情や直感をさしはさむ余裕は、次第になくなっていくのだろう。

こうして、楽しみのためにあった客観性は、愚かな人間性のために、世代を超えた悲しみの連鎖をまでも紡いでいく。上下を生み出しているのは人の心に過ぎず、それはただのイメージだ。客観性とはただの文字や数字であり、個人そのものではない。

では、個人とは何なのか。その問いの以前に、自らで感じ、考え、創造していく主体のことに違いあるまい。