人生二度無し

人生二度無し。シンプルな言葉だけれど、すぐにはその本質に気がつきにくい。

例えば、手のひらの上に、この世で最も貴重ともいえる大切なものがのっているとする。それを使えば、人間のあらゆる可能性に挑戦したり、好きなこと、やりたいことをしたり、あるいは何もしないという、当人が考え付く限りの願いを実行した範囲内で叶えることができる。 誰かのために使うことはできるが、そのものは誰とも交換できない。つまり、自らがそれを差し出さなければ、誰からも奪われることはない。そして、すべての人間にこの瞬間も平等に与えられている。

一方、その貴重さゆえか知らないが、一度使ったら二度とやり直しはできない。不可変性を有している。さらに、使う使わないの選択はできない。常にこの瞬間も自らで、いかに使うかのみを選び続けなければならない。さもなくば、その有用性は死んでしまう。加えて、その性質は善悪すら考慮しない。自らが選びとった用途の色に染まるだけである。そしてそれは、だからこそ本人そのものと言ってもいいような色彩を紡ぐ。

だから、人の選択が黒にも白にも何色にもなりうる以上、それらに正常や完璧がありえない以上、おそらく、それは諸刃の剣と言ってもいいかもしれない。人生を切り拓くのか、自分や他人を傷つけるのか、ただ飾って眺めるのか、人それぞれのあり方があるのだろう。

この諸刃の剣のようなものは、つまり「時間」のことだ。この瞬間も、どんな力をもってしても二度と消すことのできない刻印が刻まれ続けている。色が重ねられている。手のひらの上にあるそれをじーっと見つめてみれば、その可能性は、自分が考え付く全てにあるのだと、いつもはっとする。

ただ、その有り難さと危険性は、当然の内にあると忘れてしまいやすい。その素晴らしさ、貴重さ、そして怖さがいかにスケールの大きなものだとしてもだ。 だからこそ、難しいことではあるものの、頭と身体、感覚と全身を総動員して、こいつと向き合い続けるほうがいい。それだけの価値があるのだから。

もし、扱いをないがしろにして、手のひらからこぼれ落ちるだけの日々が、続いていくとしたら、知らず知らずに悲惨が訪れてくる。大切なものをただ失うことほど、悲しいことがあるだろうか。この気づきがあればこそ、あらゆる技術や考え方は活きてくる。例えば、なぜ生きるのか?むしろ、なぜ生きないのか?これだけの可能性が与えられていて、つまり、想像しうる全てが自分の世界をつくっているわけだが、その全てへの挑戦券はいつだって自分の手の内にあるのだ。

環境は、外部にはない。いつだって内部にあって、認識がそれを形づくる。とはいっても、ときにはそのどうしようもなさに、嘆き苦しむことになるかもしれない。ただ一方で、それは思考停止に他ならない。全ては本来、自分で創り出すのだと肝に銘じたい。それはいつだって甘い道のりではないが、実は、想像しているほど、単調な味は美味しくなんてない。この瞬間の味わいは、二度とはない。変化とは言葉であるよりも前に、現実のことだ。だから、自分にとってどんな味がいいのかは、常に試し続けなければ分かりっこない。

出された料理に文句を言っている者の、その時間は非常に悲しい。誰もが彼に言うだろう。ならば、自分で作れと。