欲望と自由

自分1人をとってみても、欲望の際限のなさ、その種類の多さ、その動機の有無、動機の強弱、様々にあることに気がつく。あるひとつを実現させれば、また次の実現に進む。または、あるひとつに取り組むさなかで、考えが変わり、別の何かに手を出すこともある。同時進行や移り変わり、あるいは、全く諦めることなく続くこともある。

しかし、未来における自らの欲望の姿は、まったくの未知の話になる。未知に対して、いかにして対応すべきであろうか。まず、未知という前提に立たなければならない。そののち、最も単純に未来の姿についての細分化を始めていくことが出来る。細分化された状況の分岐項目をそれぞれに検討してみる。きりがなく思えるが、きりがないならばそのままに「きりがないかもしれない」という風にラベルを貼ってしまえば良い。

さて、欲望の姿をひとつ、考えてみることが出来た。この次は、ふたつ目、みっつ目と際限のない展開が予測できる。ならば、考え方を変えよう。いかなる欲望がやってこようとも、その実現に対していつでも取り組むことの出来るような、生活の土台について先に検討すればよい。

最低限、生活に必要なものはなんであろうか。まず、食事。次に住居や衣類。この辺が確保できているならば、いかなる欲望に対しても対処する基盤が整ったことになる。生きてさえいれば、欲望の実現に取り組み続けることが出来る。生きるためには、まずエネルギーさえあればよい。実は、とてもシンプルな話だと分かる。

しかし、こうした必要なもののために、自由を手放すとすれば、それは問題だ。自由がなければ、欲望の実現に対して抑圧がかかることになる。ただ散歩をしたいと思ったとき、首輪につながれていれば、どうして自由に散歩することが出来るだろうか。

奴隷として一生を過ごす者は、よりよい奴隷としての生き方までしか試すことができない。雇われの身として一生を過ごす者は、よりよい雇われの身としての生き方までしか試すことが出来ない。国民として一生を過ごす者は、よりよい国民としての生き方までしか試すことが出来ない。人間として一生を過ごす者は、よりよい人間としての生き方までしか試すことが出来ない。生物として一生を過ごす者は、よりよい生物としての生き方までしか試すことが出来ない。存在として一生を過ごす者は、よりよい存在としての生き方を、やっと自由に試すことが出来る。そして、ただあるがままにあることができるような気がする。

自らが経験しうる自由の範囲でしか、生き方を調整する術を知らないとすれば、自分よりも高度の自由を知る者からすれば、当然おかしな生き方だと判定されても仕方が無い。逆もまた然りであろう。

話を元に戻そう。

自らを生きるためには、まず、自由であること、そして生きることが可能であること。これだけでいい。これだけで、あとは欲望に従うも逆らうも好きにできる。生きるだけならば、自由さえいらないが、ならば、自分である必要も無い。この世に生を受け、自分として存在する意義を考えるならば、どうしたって最低限、心の自由だけは手放してはならないのだ。