正常を求める徒労。

人間が誕生して以来、これらが正常であったという記録を、目にした覚えはない。いつの時代にも、狂気と美徳と偉人ともろもろ存在していた。皆が皆、正常なのは自分だと、心の内で思いながら、自分だけが自分の異常さに、特別な嫌気を感じては、そのコンプレックスと、なにがしかの戦い、あるいは休戦によって、ぶつかってきた。

誰も他人のことなど眼中にない。他人を通して自分を見ているにすぎない。何も、彼が特別な存在ではないからというわけでもなくて、仮に有名人であろうと同じだ。コンサートに集う観客たちは、スターを眺めながら、心では自分を見ている。いや、見ているというような、そんな能動的なものではない。世界を認識する方法は対象そのものからではなく、必ず自分というフィルターを通じて行われるからだ。

例えば、全ては一つという前提に立って、他者と自分は同じだなんて、考えるようになってしまったら、もうそりゃあ、恐ろしい。確かに僕らは、他人を通して自分を見ているけれど<、だからこそ、今の今まで他人のことなんて、まともに見れたためしがあったろうか。他人のことなんて、何も知らないのだ。知っていると思うのは、おそらくただの傲慢に過ぎない。他者を通して見る自分のことですら、すぐさま正視できたためしがあったか。その醜さに嫌気がさして、目をそらしてばかりではないか。感情に上塗りを重ね続けて、生きている実感を、味わい続けていないと?じーっと、ぼーっとしていたら、目をそらしてきた嫌気に押しつぶされやしないかと、不安で不安で仕方がない。

正常なんてものが空想なのだから、それは自分にも他人にもありえない。無論、その集合体である社会が、正常であることなんてはなからありえないだろう。だから、批難は根本的に無意味だ。価値があるとすれば娯楽としてだろう。なぜなら、前進や改善、向上なんてのは、方向が360度あったら、自分がそうだと決定したら、そうなるだけの話だからだ。

だから障害や病気なんてものも、あるようでないものだろう。自分のことを嘆く、それほど愚かな姿があるだろうか。そんなに人生に期待していたのか?誰に植え付けられた、その妄想を。死はゆっくりと近づく。同時に、ゆっくりと妄想は、その威力を失っていく。そこに期待があれば、つまり裏切られるだろう。

「幸福」という妄想を知っているだろうか。誰も見たことがないけれど、皆が欲している、というように、誰も彼も信じていて我こそは、真の幸福者!と、日々、周囲に叫んでは、あるいは、本当の幸福とはうんぬんと、日々、自分や他人に語っては、薄々、気がつき始める。なんだこれは、なんなんだと。あるいは、どっぷり妄想の内で、完全な自分信者になる者もいるかもしれない。

ならば、そんな妄想よりも、お金の方が、形があって、ちゃんと目に見える分ましだろうか。形はあっても栄養も無けりゃ味もない。仮に好きな女が、それで目の色を変えるのを見たくもない。

生きることは食べることで、食べることは殺すことで、殺すことの手間賃を誰かにいつも支払ってる?「いただきます」なんて、口だけだろう。血のしぶきを体に浴びた者が何人いるのか。ベジタリアン?もしそれが命に優劣をつけた結果の話だとすれば、なんともおめでたい話だ。