簡単に繋がろうとする寂しさの中で。

人と人は、直接対面で会話していようとも、心が通じ合うことは簡単ではないのかもしれない。

信頼関係の構築は、心の通じ合いをもって行なわれる。仮に、一度でも、心に穴が空いてしまった場合、それがふさがるということはほとんど稀であるように思う。その穴は、危険を避けることに役立ちはするが、新たな関係の構築にかかる時間を複雑にする。

関係のあり方が多様化していく中で、しかしどれだけお互いを知り合い、そして分かり合い、歩み寄り、傷を癒し合い、さみしさを大切な出会いに変えていけているのだろうか。

簡単に繋がれる一方で、簡単に切り離されていく関係が多すぎる。出会いが増えていく傍らで、その一つ一つをゆっくりと吟味し、向き合う時間が減っていってはいないか。交わした約束の多さに比例して、守れなかった約束や反故になった約束はどれだけあっただろうか。

対人関係で味わった苦しみや、受けた傷、あるいは、逆に傷つけてしまった経験を、自分の中で消化する間も無く、次の関係に移っては同じことを繰り返している気がする。そして何にさみしさを感じ、それをどのように捉えて、次の出会いに活かしていけるのか、それを考える余裕は心にあるだろうか。しっかりと考える前に、さみしさに負けて、うやむやのまま刹那的な現実逃避と快楽の中で、心の奥底に詰め込まれていった大切な何かが、ことあるごとに蠢いていることをたびたび感じる。

少なくとも、簡単さがもたらした悲劇を覚えておきたい。謝罪だけではどうにもならない心の穴が世の中にはきっと沢山ある。通じ合うことは、どう考えても簡単ではないのだ。それは時間が解決するという万能薬が役立たないこともあるほど、人間の深いところにある。

今蠢いているさみしさの原因は、関係性や繋がりの中にではなく、簡単に繋がることが可能になったのだと錯覚した自分自身の中にあったのではないかと反省している。「一事を増やすは、一事を減らすにしかず。」大切な事を大切に出来ないということほど、出会いの意味を無視するあり方もないだろう。大切な事に出会うことができたのならば、どうか、まず、その出会いと深く向き合いたい。はたして心の繋がりが築けるかどうかは分からない。しかし、ひとつひとつから学びを得ないままで前に進もうとしても、ことあるごとに、同じ過ちを繰り返してしまうだけなのだ。

自らの器の度量や形を見誤らないようにしたい。器にあったあり方がある。穴が空いたままで、中に何かを注ぐことは難しい。そんなときは、新たな器を作り直そう。何度でも。そして、新たな器の中に、改めて注ぎ直すのだ。器から何かが溢れかえっているなら、なぜ注ぐことをやめないのか。新しい器が焼き上がるのを待とう。注ぐことがいかに簡単になろうとも、器を造ることには時間がかかる。それが立派であるほどに。きっと、大器晩成とは、その焼き上がりを悠久と待ったその先にある姿のことなのだろう。