善く生きるために。

いくら自らの基準や尺度によって自らの行動を決定していようとも、やはり批判への緊張は避けて通ることができない。自らを確立すればするほど、他者もまた確立された存在だと認めていくことになる。ならば、自らが自らの尺度を持つように、他者もまた、その者にとっての尺度を持っているのではないかという可能性に気付かざるをえない。それぞれに尺度や基準が異なるかもしれないという前提に立てば、他者の基準に照らして、もしかすると自らの行動は批判されるかもしれないという緊張感は常に存在する。もしも、この緊張感を避けるために、大勢の理屈に埋もれるならば、同時に、自らの心や欲望に蓋をすることになる。誰からも批判されないことと同時に、自らを失うのだ。

だから、自らを保持したいのであれば、考えるべき方向は、批判の回避ではなく、試行錯誤や自らの改善、あるいは批判を真っ向から乗り越えていくことだ。自らに、間違えることや失敗を何度でも許してあげる優しさや強さが必要になる。と同時に、その経験をもとにして、他者へもより寛容になれるはずだ。

もしも、社会に息苦しさを感じているときは、それは社会が息苦しいのではなく、自らが自らを息苦しくしているのだと気がつく必要がある。心の狭い完璧主義者ほど、息苦しさを生む人間はいない。考え方の多様性は、確かに重要だけれど、それはまずもって頭の中の話なのだ。生きるためには、考えることよりも、まずは呼吸の方が必要だ。呼吸が息苦しいままで、まともな思考をしようとしてもそれは難しい。

空気は、生物が皆で共有しているのだ。なるべく、汚い空気をまき散らさないことが、お互いのマナーだ。空気が綺麗であれば、それだけで単純に周囲のすべての生物が生きやすくなる。すると、当然ながら自らも快適に暮らせるようになる。

自らの人生は、やはり自らで創り出すと同時に、周囲や世界とのつながり方によって、その難易度が変化していくのだ。独りで寂しく奔走して、自らの殻にこもっているならば、確かに傷つくことはないだろう。しかし、どうやら、独りになればなるほどに、この世は、生き辛くなってしまうのだ。それは、他者の視点を欠いた生活では、どうも自尊心と寂しさばかりが肥大して、態度が社会的ではなくなっていくからなのかもしれない。

批判は、自らを戒めてくれる。戒めがなければ、どこまでも傲慢になってしまう可能性が誰しもある。緊張感は、他者の存在を身近に感じているから生じるのだ。緊張感がなければ、いつまでも自分勝手な稚心は消えず、自らの周囲の空気を損なうことがより多くなるに違いない。

依存と向き合うことは、自らと向き合うことだ。自らと向き合うことで、他者と向き合うことができるようになる。他者と向き合うということは、社会と向き合うことを意味する。社会と向き合い、つながりを知れば、何かに依存して自らを慰めていた理由が、そのつながりの中にあったことに気がつく。自分以外の存在と、関わりを持ち、縁を結ぶならば、本当に沢山の経験がそこにある。そこでは、清濁、善悪、喜怒哀楽、その全てを噛み締めていく自然な勇気や覚悟が必要だったりする。

自らの邪心なき善を、勇気をもって社会に示し、またそれを「改善」していく。このシンプルな勇気が、善く生きるためには欠かせない態度なのだと思う。